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作家・栗本薫さん死去(J-CASTニュース) 「マジ?」が、僕の第一声だった。
次の即座に思ったのは、というか栗本薫さんを知る人なら誰もが、「グインサーガ」どうなるの? と思ったんじゃないか。
「グインサーガ」とは、栗本薫さんの手による超長編大河小説。現在126巻まで出版されてる。前々回の質問の回答にあるように、僕は「グインサーガ」が大好きだ。
僕が「グインサーガ」を知ったのは高校生のころだった。
当時の僕はまず活字自体を読むのがそれほど好きじゃないというか、習慣ではなかった。読書家という言葉には全然当てはまらない人間だった。国語の授業は退屈だった。
そんな僕に読書の面白さ、いや中毒性というだろうか、教えてくれたのは「グインサーガ」だったのだ。「グインサーガ」を読んでからというもの、じょじょに活字の世界に人生が入りこんでいった。
当時「グインサーガ」はたしか40巻まで刊行されていた。図書館でふと手にとったのがきっかけだった。偶然としかいいようがない。栗本薫さんは言うに及ばず、作家の名前なんてほとんど知らなかったし、自主的に読んだ本なんて富士見ファンタジアからでてた、いまでいうライトノベル系の小説を片手で数えられるぐらいしかなかったと思う。
「グインサーガ」にはハマった。借りまくった。5冊の貸し出し制限が図書館にあったのだが、借りた5冊を帰宅してその日のうちにむさぼり読んでしまい、再度図書館にいってそれを返却し、続きを借りるなんて芸当したものだ。時間が腐るほどあったからともいえるが、でも「グインサーガ」だからこそだ。
さして時間もかからず当時の最新巻まで到達し、それからは新刊がでるたびに読んでいく人生がはじまった。図書館にいけば、まずチェックするのは「グインサーガ」だった。
ずっと好きな小説が「グインサーガ」であることを公言してきた。
一時期、「グインサーガ」から離れた時期もあった。自分自身の人生の急変に小説どころじゃないよ、というのもあっただろうし、心身ともに成長して「グインサーガ」にぞっこんというわけにもいかなくなったのかもしれないし、それにたしかに小説自体にマンネリ感というか中だるみ感というか、そんなものもあった。ナリスの死は致命的だった。「グインサーガ」に登場するあまたの人物の中で誰が僕の心を一番ひきつけたかといえば、放浪時代のグインやイシュトヴァーンも充分その資格ありだけど、やはりなんといってもナリスだ。「世界生成の秘密」といったような哲学的な概念を僕に吹き込んでくれたのは夢想家ナリスだった。
ナリスのいない「グインサーガ」なんて、「グインサーガ」じゃない。そんな風に感じもした(うろおぼえだけど、栗本さん自身もあとがきでそれっぽいこともらしてなかったっけ)。でもやっぱり僕は「グインサーガ」に戻ってきた。惰性と皮肉くることもできよう。でもある人はサザエさんや水戸黄門やこち亀を見続けるように、いい意味でのマンネリズムとも言えた。変に頭を動かさずに、安心して素直に小説世界に入り込み楽しむことのできる娯楽小説が「グインサーガ」だった。いわばホームタウン。それに時折胸がしめつけられる場面もあったりする。最近でいえばグインとシルヴィアの別れの場面とか。
新刊は順調にでていた。だから訃報には驚いた。続きはどうするの。
誰かが続きを書くのかもしれない。それはそれでいいでしょう。抵抗感がないといったら嘘になるけど、でたらいつか読んでしまうと思う。それでも。栗本さんのはっちゃけたあとがきって、今思うとあれもあれで「グインサーガ」の味の一つだったんだなぁ、と思う。正直、僕は書いてある内容はよく理解できなかったけれども。あのあとがきがない「グインサーガ」を読んだら、やっぱり「グインサーガ」は終わってしまったんだな、と感じてしまうかもしれない。まさにナリス亡き後の「グインサーガ」のように、栗本亡き後の「グインサーガ」。
続きが永遠にでないのもそれはそれでいいかもしれない。人生、たらればがつきもの。栗本さんが生きていたら。そう思い続け自分が死んでいくのも一興。人生や。
僕は122巻「豹頭王の苦悩」まで読了している。栗本さんがてがけたグインサーガ最終巻は126巻「黒衣の女王」となった(もしかしたら127巻やそれ以降の原稿が亡くなる前にできあがっていていずれ出版される可能性もあるのかもしれないが)。一巻一巻噛み締めるように読んでいこうかな、と思います。
バカと暇人が愉しめるウェブだから凡庸なぼくは世界を語る 素晴らしい。味のある文章です。
>そんな凡庸な人間が書いた辺境のブログがいったいぜんたい面白いのかと問われれば、これはとても面白いと答えるよりない。誰が面白いのかってそれはもちろん、ぼくが、だ。
清々しい開き直りに思わず声を出して笑ってしまった。
>無駄な時間こそ人生である。
>生きることは世界という情報を断片的に読むことに違いなく、些か乱暴にフィルタリングされ濃縮された断片である文字情報が、麻薬のように脳を快楽で蝕むなんてことは思えば当然のことである。
>これを敗北というならいうがいい。所詮、世界の断片の話だ。
特に最後の言葉がじんわりきますね。
「敗北」という認識、「所詮」と続ける肝の据わり方が文章に血肉を感じさせます。
本好きへの100の質問なるものをやってみた。
本好きへの100の質問 長い、長いよ。
ゲームブログから、今のようなスタイルになってチェックするブログも変わった。
ゲームブログの場合、そのゲームのブログ群というか共同体が形成されていたので、自分のブログを立ち上げる際には書き方や話題の取捨選択など、アクセス数の多い有名ゲームブログなどを参考に見よう見真似でやったものだし、随時他のゲームブログを巡回してた。そうやってゲームブログ共同体に参入し、そこで活動した。
今は何を参考にしてよいのやら。というか、自分のブログがどの共同体にも属してない気がする。
ゲームブログ共同体を出奔した後、ネットサーフィンを繰り返してはピンとくるブログをお気に入りに追加。次第にチェックするブログも固定されてきた。
以下に紹介するブログ群は、僕が日々チェックしているもの。
Weep for me ボクノタメニ泣イテクレ <コラム系ブログ>
簡潔でまとまりのある文章を、小気味よく更新してくれるサイトで、内容がいい意味で常識的なので読んでて安心感がある。
ハックルベリーに会いに行く <コラム系ブログ>
一度トラックバックを打たせてもらったブログ。練られた密度の濃い文章を更新率高めで読ませてくれる。
シロクマの屑籠 <コラム系ブログ>
少し斜に構えた視線が、興味を引く。シューティングゲームに関する文章が俊逸。
肉欲企画 <文学系ブログ 18禁>
単刀直入に、エロブログだ。エロ画像が貼り付けてあるわけでもなく、長文が書き綴られてるだけなんだけど、ネタがただエロのみ。なのでご注意を。
個人的には一番好きなブログ。ネタがエロなのに、文章からは気品が漂う摩訶不思議。ってか、控え目にいっても文才ある。ネットでまさかこんな格調高い文章が、しかも題材がエロで読めるとは思いもよらなかった。ネット歴たぶん10年もいってない僕だけど、ネットの海を徘徊しててこのブログを見たときは、何かを"発見"したという衝撃があった。
厳選した記事を本にまとめて金取れるじゃないかと思うぐらいのクオリティ。就寝前にベッドでパラパラ読むにはうってつけだ。
このブログには、まさに"ここでしか読めない"雰囲気が充満している。
肉欲企画に対する感嘆は、ブログによる表現の可能性にまで僕の妄想を膨らませてくれた。
以上。結果的には知る人は知っている有名ブログばかりとなってしまった。
リンクやトラックバックを飛びまくっていろんなブログを覗いている僕だけど、思考のフィルターに一度かけて構成された息の長い文章を書け、書く対象も広域なブログとなるとそんなに多くないのかもしれないと思った。僕の趣味が狭量で、一般的にはこれぞ、というブログが無視されているだけなのもあるけど。
上に挙げたブログの共通点を探ってみるなら
・文章に、その人の個性が滲み出ている
・読みやすい、まとまっている。つまりリーダビリティに一定の配慮がある。
・閲覧者の関心に対して、文章の内容にまで踏み込んで配慮している。
有益な情報があったとしても無個性で新聞記事のような味気ない文章だと読む気減退。そのブログだけでしか読めない魅力的な文章を求めて、そのブログを訪れるわけだが、でも読みやすさを欠いただらだら長文ではブラウザを閉じたくなる。(「肉欲企画」は長文だけど最後まで読ませてしまうテクニックが確実にある)そして、さらに文章のネタが自分の関心と合致していればなおさらいい。
読書感想文。
風の歌を聴け 村上春樹著 講談社文庫 いわずとしれた村上春樹さんの処女作。
手元にブックオフの100円シールが貼られたこの本がある。たぶん、小説というジャンルの中で再読の頻度が一番高い本になる。それほど折に触れて何度も何度も読み返してきた本だ。心が真空状態になると、つい手が伸びてしまうんだ。読みたくなるんだ。そのような本はこれ以外にない。
ただ読み返す部分はほとんど有名な書き出しではじまる第一章だけという偏食ぶり。ついで第一章以外だとデレク・ハートフィールドについて書かれた部分くらいか。
第二章以降の話はどうでもいいというのは言いすぎだけど、何度も読めるものじゃない。退屈さだけが支配する箇所はいくらでもある。僕はバーでタバコとビール片手に時をつぶすようなシャレた若者ではまったくなかったし、作中で表現される女性に対する感受性もあまり理解できないし、好きでもない。1970年という作中の時代も遠い国のお話のようにしか感じられない。第二章以降で繰り広げられる「僕」と鼠のやりとりは異世界の出来事といったらいいのだろうか。異国のお話を好奇心で読むようにページをめくっていけるけど、書かれている内容に親近感はあまり感じられない。だから第一章とそれ以降では別の本という気さえするのだ。
それほど第一章だけが何度読んでも飽きない。こんなに飽きない文章は今の所ほかにない。
さらに言えば村上春樹さんの小説群の中でも僕が気に入ったのは「風の歌を聴け」の第一章だけ、ということになる。村上春樹さんの小説は他にも多数読んだことがあるけど、「風の歌を聴け」の第一章に感じたようなスペシャル感はなかった。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
グーグルでネットサーフィンしていると、「完璧な○○」のところには何を入れてもいいので結局無内容な言葉だと、辛辣に評する人がいたけど、やっぱりここは「文章」と「絶望」でなければいけないと思う。第一章は書くことと、その困難さをめぐって、それだけが書かれているからだ。
でもよくよく考えてみれば、「完璧な文章」という言葉はよくわからない。「文章」がまず抽象的な響きをもち、さらにそこに「完璧」が加わって複雑さが増す。文法的に瑕疵のまったくない文章が「完璧な文章」というわけではないだろう。文法的に全く正しい文章は存在するからだ。存在しないからなんでも詰め込むことのできるマジックワードとして機能しているのかもしれなくて、だから人それぞれ自分の思うことを勝手に詰め込めばいいのかもしれないけど、僕は「完璧な文章」をわかっている気になっている。それが存在しない、という一点は。「完璧な絶望」もそれが存在しない、という一点はわかっている気になっている。ほかにわかっていることに何があるだろう。
気になった箇所を取り上げながら進めていく。
「象」と「象使い」。「象」が書けても、「象使い」は書けないから、「絶望的な気分に襲われる」という。なんで「象使い」のことまで書きたい、いや書くべきだと思っているのか。この比喩は僕たちの生の限定生を意味しているだと思った。そして生が限定されているから、「書くことのできる領域」が限られていて、「完璧な文章」は存在しない。
たとえばタイ人に生まれていたら「象使い」について書けたかもしれない。でもタイ人と日本人では、手にする言葉、書ける領域はまた違ってくるだろう。日本人には書けても、タイ人には書けないものがきっとある。日本人とタイ人の対比を、個々人にまで広げれば、書けるものと書けないものの種類は無数に存在することになる。一個人が書けることと比べれば、書けないものなんてそれこそ途方もない数で、「完璧な文章」とは夢想なのだ。
書く、ということはつまり己の生を限定することで、それは「完璧な文章」という点からすればまず諦念を意味する。「僕」は20代の「8年間」を沈黙していた。沈黙とは己の生を限定しない生き方で、「完璧な文章」を追い求める姿でもある。でも20代の最後、「今、僕は語ろうと思う」と意を決する。「完璧な文章」を放棄する。「完璧な文章」なんて存在しないことが長い年月をかけてやっとわかったのだから。つまり己の生がどうあがいても限定されていることをようやく知り、受け入れ、そして「完璧な絶望」もまた存在しないのだから書く。
話は脱線するけど、僕が就職活動をしてた若かりし頃、その気になればなんにでもなれる、と思い上がってた。だからといっていいか、就職活動は難航した。あれも、これも、と目移りして就職先が決めきれないのだ。そして、それは自分の生を限定したくない、という欲望の裏返しでもあった。なんにでもなれるのに、なぜ一つに限定しなければいけない。サラリーマンとして一つの会社に一生を費やす、そう考えると気が遠く重たくなった。現実的には転職しようと思えばできるけど、新卒の時は考えが及ばなかった。まさに身も心も会社に捧げる気でいた。
小学→中学→高校→大学と進学する中で、生の限定性はそれほど意識されなかった。みんなと歩みを揃えて生きている気がしたからだ。でもいざ就職という段になって、極度に自分の生を切り詰めざるえない局面を迎える。あいつはあの会社に就職する、あの子はあそこの会社、じゃあ僕は?僕はどうすればいい?子供のように駄々をこね、生を限定するぐらいなら就職なんてしたくない、と思った。就職したら人生終わる気さえした。とはいえ、僕は現在就職して、一日の大半を会社に費やしている。僕の生は限定されている。でも、だからって人生終わった、と思うことはなかった。まさに「完璧な文章」は存在しないけど、「完璧な絶望」もまた存在しなかったのだ。生は限定され、ありえた生の喪失感に苛まれながらも今、こうやって僕は生きているし、限定された生であってもそれを生きようとわずかづつであれ思えるようになってきた。そして「完璧な文章」が存在しないと思えるようになったから、ブログでこうやって書けるようになったのかもしれない。
話を元に戻す。しかし、なぜ書くのか。「完璧な文章」は存在しないのに、なぜそれでも書くのか。「自己療養」とあるが、なぜ療養しなければならないほど傷ついているのか。
こう考えてみる。
「完璧な文章」という観念の中に囚われ、没入し、溶けてしまった僕は傷ついてる。書くことは、「完璧な文章」という夢想へ溶解し、霧散した僕をもう一度創り直す試みなんじゃなかろうか。書くことは諦念であるとともに、内臓に魂こめてタフに愚直に生きることなのだ。
完璧な人生なんて存在しないにもかかわらず、中途半端で不完全にしか生きることができなくても、それでも生きようとすることが書くことへつながる。
ようは誰でも、もとから大小さまざまな傷を持っている、誰であれ大なり小なり中途半端で不完全だから。そしてある人には療養の試みの一つとして書く行為があった。
書くことを決めた「僕」が守ることは、正直に書くことだ。
「しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。」
と、「僕」は書き記す。唯一正直に書くことだけが、「完璧な文章」に埋没した僕を引き上げる手立て、僕の生を取り戻す手立てであったが、「正直に語ることはひどくむずかしい」。
そこでよりどころとなるのが「ものさし」だ。
「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」
引用文の次のくだりで、ものさしではかることをおぼえた「僕」は、いろんなものを投げ捨てる。これは「感性」を捨てることだと思った。「感性」はたんに偶然の体験がのべつまくなしに累積されてできたあがったものにすぎず、「僕」の正直さがそこに貫徹されているわけではない。むしろいろんなものが浸透しながら積み上がってできた「感性」は、僕の正直さの発露を阻害する。だから捨てる、「僕」の正直さにそぐわないものはすべて捨てる。「感性」を取り去った後に、ものさしで「自分と自分をとりまく事物との距離」を正直な心だけをたよりに確認し、書く。たんなる「リスト」しかできあがらないとしても、それが正直さにこだわった書く行為で、「自己療養へのささやかな試み」なのだ。
「風の歌を聴け」の第一章になぜ僕は虜になるのか。無限定な生と限定された生の狭間で、書くことをめぐって紡ぎだされた明確な言葉がそこにあるから、と答える。
みんなと同じように 僕が自分の人生の歩みを定める時、無意識のうちにそれが下敷きとなっていた。中学生から高校に入るときには、勉強なんてあんまりしたくないのにみんなと同じように高校にいった。 小学校から中学校に進学するのって、まだまだ狭い学区でのことだからクラスメイストに知り合いなんてたくさんいる。小学校の延長のように、日常的に友達と顔を合わせられる空間として中学はあって、だから中学にいくのにそんな葛藤はなかったように思う。その年頃じゃ行き場所なんて学校ぐらいしかなかったし。 でも高校となると違ってくる。高校は自分で選ばなければいけない。中学時代の知り合いの同級生の数も微々たるものとなってくる。自意識が学校の幅におさまりきらないほど、成長してくる。学校がよそよそしいものに感じられてくる。それが中学、あるいは小学のころから感じる人もいるだろうし、自意識と学校生活がぴったりとおさまった楽しい青春を送る人もいるだろう。「楽しい」とちょっと皮肉っぽく書いたのは、学校という世間絶対公認の空間になんの疑問も抱かずに生きていけるのはたまたまの僥倖にように思えるから。本人の努力と関係ないところで、恵まれている、といえる。 ともかく僕は高校からだ、学校に疑問をもちはじめたのは。でも、みんなと同じように学校にはいってた。 ほかにすることないし、みんなもいってるだから僕もいかなきゃ。 不登校をきめこむほど、他にやりたいこともないし、かといって漠然とした学校に対する不満だけで、学校にいかないのもどうかな、と思った。みんなと同じから外れることにはうっすらとした不安がある。そして、その不安を打ち消すには学校へいく以外に方法はなかった。 でも、みんなと同じように学校いってなんになるだろう、と別の不安もあったのだが、じゃあその不安を拭い去るのに具体的にどうすればいいのか見当がつかない。 学校は先生からいろいろ教えてもらいながら勉強する場所。そこにいきたくない気持ちを抱えては勉強に身も入るはずもない。勉強もそこそこにゲーセンと麻雀と競馬と読書にうつつをぬかした。言葉にするとそっけなく感じるが、まあそんなどこにでもある青春。 時は刻々と進む。高校卒業が迫る。 この先どうするか。 進路を選択する機会を否応なく叩きつけられる。 世間一般では大学くらいでてなきゃ、という観念あると思う。みんなと同じように生きてきたのだから僕もそれぐらいは知ってた。ただ、これ以上勉強することに当時ウンザリしてたのも事実だ。大学?なにそれ食えるの?的な意識が一方であったし、成績もさんざんな状況で大学なんていけるわけないとも思った。 働こう と一度は思った。僕が通っていた高校は進学校では全然ないので大学に進学しないやつも大勢いたし違和感はなかった。ただ就職先をどうするか、明確なイメージなんてものもまったくなかった。学校を出たら、自分で稼いで生きていくのがまさにほとんどの人間がやってることだし、就職という選択も、みんなと同じ、という思考の延長線上で漠然と考えてただけであった。 世の中、貴賎を問わず職業なんて千差万別、無数にある。 僕はどれを選択すればいいのか、いや選択したいのか。 うんなものはない。というか、職を選ぶのに理由なんているのか。はっきりいって働いてる大人の姿を見て、その職を選んだ明確な理由、強い意志など見て取れなかった。職なんてなんでもいいや、と投げやりな態度を暗に見せる僕に、親は大学進学を勧めた。小理屈ばかりを考え、内気で無気力な僕を見て、このまま社会に放り込んでも野たれ死ぬだけだ、と考えたのかもしれない。大学に入ることで何かが変わり、人前で胸をはれる立派な息子に成長するかもしれない、と期待したのかもしれない。 親の勧めに反対する理由がなかったから、大学受験したが案の定すべて落ちた。これまでの己の学業を省みれば当然の結果だったので、ショックはなかったと記憶している。浪人して勉強した。たまに予備校いって、あとは日々図書館で勉強した。やってみると案外、勉強は楽しかった。先生に命令されてやってる勉強ではなかったからだろう。歴史を知ることのできる世界史が特に楽しかった。そんなこんなで大学に合格することができた。 大学時代はみんなと同じように普通の青春を過ごした。特にここで長々と記す必要のあることはない。端的に大学にいってよかったと思ってる。曖昧で何も伝わらないことを承知で書けば、様々なことを知り体験できた。いきたくてもいけない人のことを考えると僕は十分に恵まれている。 ただ大学にいっても、問題は何も解決してないように感じる。 さて、大学を出て何をすればいいのか、いやなにをしたいのか。 大学進学は親の鶴の一言で決まったが、もうそうもいかない。 ここで恋人の鶴の一言でもあればもっけの幸いだが、そんなものを相手に欲しがる交際は長続きしなかった。 順当に考えれば、みんなと同じように就職しかない。大学院にいったって、先延ばしでしかなかった。 就職して何をすればいいのか、いやなにをしたいのか。 結果から言うと僕は就職して現在働いてる。だからといって、問題が解決してるわけじゃない。口先だけで潜り込める会社なんていくらでもあるものだ。そして、自分をだましだまし、なだめすかし、業務を遂行することができる。 それもみんなと同じ。 かもしれない。でも僕は一方でみんなと同じなことにたまらなく不安を感じるのだ。 違う。みんなと同じように生きるのが辛いのではなく、自分の心の動きを正確に言葉にしてみるとこうだ。 みんながこのように生きてるのだから、僕もこのように生きなければならない、何をするにしても僕の意識はもう反射的にまずそのような思考が真っ先に声を上げる、その声に順応するにせよ、反抗するにせよ。そのような生き方に不満を覚えるのだ。そのような身体になってしまった自分に憤りさえおぼえる。 ファーストチョイスが、みんなと同じように。 自分の行ったことが結果的にはみんなと同じようになったことに不満、不安なのではない。やる前から、みんなと同じように、という起点からしか物事を考えはじめることできない自分に苛立っている。 僕は人の顔色をうかがいながらやってきた。それが染み付いたせいだろう。それが拡張されて世間の顔色をうかがうしか能がない人間となった。リアクションで生きる人生。それはたぶん安全で疲れない人生だ。自己実現という言葉があるけど、そんな話をしたいのではなく、社会を生きる上でリアクションではないアクションをするのは危険な行為だから、リアクションから外れることを行うのは怖い。そして、僕には怖さをねじ伏せるだけの内発的な欲望というものがない。あるのかもしれないけど、それをまず言葉にすることすらできない。だから、ないも同然だ。ないならないでけっこうなので、みんなと同じように生きさせてくれ、と思いもするが、胸のモヤモヤは消えてくれない。
久しぶりに読書感想文書く。
今回はこちらの小説。
花散里 針谷卓史著 講談社BOX 「坂寄君って、付き合う前に思っていたより、面白くない人だった」 "つまらない"との烙印をを押されて彼女に捨てられた 教養学部大学生・坂寄誠一は、屈辱的な失恋のリベンジのため、見切り発車の新たな恋に走る! パーティーで出合った能楽研究会所属の後輩・津村真衣を相手に、"ふられない"男になるべく精進する日々が始まるが・・・・・?(講談社BOOK倶楽部より)
頭でっかちの男の子の恋愛って、こんなもんだと思う。青春時代の「恋愛」と呼べしき出来事を、大人になっても夜な夜な反省会してしまう人には材料に事欠かない小説。男と女の交際をこれから、そして今同時進行中の人は予習、復習の材料にいいじゃないでしょうか。
プライドの高い女の子の恋愛って、こんなもんだと思う。と、女を見る目がない、と自覚症状のある僕が無責任に言ってみる。
まだ未読の人に、この小説を面白いか、面白くないかの二択にするとしたら、僕は面白いと答えたい。けど、人によっては、あるいはその日の気分によっては金を、時間をかえせ!と内心叫びたくなる小説かもしれない。だからお勧めするには、ちょっと躊躇ってしまう。「エレGY」と比較するとカタルシスに欠けるところ大いにあるからかもしれない。
まあ、でもなんだかんだいって自分の好きな小説だから、みんなにも読んで欲しいな、なんてね。
以下、小説を既読の方どうぞ。
「ドキッ!こういうのが恋なの?」 えり〜な (Youtubeへのリンク)
ハイハイハイ!ハイ、ハイ、ハイ、ハイ!
ハックルベリーに会いに行く やはりえり〜なはすごい(つんく♂も) 思わず、引き込まれてしまいました・・・。
甲高い少女の声と、野太い声のコンストラクション。男性アイドルに女の子がキャーキャー騒ぎ立てるのとはまったく違う何かがここにあります。
橋口恵莉奈ことえり〜なはどうやら12歳のようです。まだ小学生でしょうか?リンク先で動画を見るまで、その存在すら皆目知りませんでした。たった2分17秒の動画の、しかも年端もゆかぬ少女のライブに詳細な長文をしたためるaurelianoさんの熱気もすごいのですが、私も何度も動画を見ているうちにライブそのもののエネルギーに感染されてしまいました。
観客の声野太すぎw。いやぁ、なんでしょうね・・・。男の剥き出しの本能の雄叫びが直に耳に入ってくるようで、なんとも言えない痒さがあります。心がむずむずする。それにたじろぐ様子が微塵もないえり〜なはすごいですね。
えり〜なの緻密な解説はリンク先のブログをまず参照してください。
以下、私も補足的に感想をパラパラと。同じことの繰り返しで重複するところ多いですけど。
aurelianoさんは手を強調していますが、私もそれはうなづけました。「奇跡の右手」あるいは「神の右手」。右手の動きで観客の声を導き、ステージを掌握しています。恐るべし。
ミニスカートから伸びでた短い足やあどけなく走る姿、1:16に映し出される股を大きめに開いて屈伸する姿なんてまさに子供そのものと思えるのですが、どうしてどうしてOKサインを送る手の動きは異次元の世界です。
1:07のシーンを「一幅の奇跡」と書かれてます。このシーン、ハイハイハイに合わせて右手を観客に向けて高く差し出すのですが、その直前、右手は腰付近でくるっと一回転するんですよね。この円を描いた運動はとても不思議な魅力をたたえてますw。もともと振り付けにあったのでしょうか、それとも彼女が無意識にやったことなのでしょうか。えり〜なが走り、ステージの中央で止り、ハイハイハイと右手を掲げるまで少し間がある状況です。ここで右手をダラッと下に垂らしてるのでは、右手の動きが止まってしまう。それを防ぐための一回転のような気がします。仔細に見れば、2分17秒の中で、えり〜なの右手は休みなく運動しつづけています。この一回転のおかげで運動が途切れることなく続いています。まさに右手でステージを作っていた!
舞台の演出もなかなか憎い。えり〜なの周りで踊るダンサーがえり〜なより年下の小学生にも満たないような幼女だったり、年上の立派に発育したお姉さんだったりします。そのような構成が、観客の視線を一身に集めるえり〜なが、まさにその年齢じゃなきゃいけないと説得力をともなって思わせるものです。
まあ、でもえり〜なの凄さとともに、やっぱり私の心を揺さぶるのはえり〜なに半ば狂って熱中する野太い声のほうだw。アイドルのライブではこういった声がこだまするのが普通なんでしょうか。行ったことがないのでわからないですが、耳慣れないので衝撃的です。こういった野太い声の大音量で思い出すのは浦和レッズのサポーターの大合唱ぐらい。引退してしまったストライカー福田選手に対する「ゴオ〜ル、フクダ、ゲットゴール、フクダ!」は、野太い声の代表格として耳に残ってるですけど、サッカーは男と男が戦うスポーツですからね。闘志をかきたて選手を後押しするのに、野太い声の大合唱は黄色い声援なんかより違和感なく、むしろマッチしています。でもそれが小学6年生の女の子が歌う声にどうマッチするかなんて、私の想像の域を超えている。
「女の子のメル友募集」 の続き
ブログの管理画面を開くたびに、俺は怪しいスパムコメントの駆除に追われていた。
消せども消せども、やつらはネットの海からしつこく湧いてくる。
以前からスパムコメント、略してスパムンの襲来はあったけれど、それは新しい記事をUPして2、3日もすれば止むのが普通だった。しかし、今回は全く違う。何日経てど、止む気配がない・・・。
同類、友を呼ぶってか。
スパムンに見紛うタイトル。「女の子のメル友募集」。他人様のブログにトラックバックでもすれば、問答無用で即効消されかねない汚れたタイトルだぜ。
因果応報、自業自得。この惨状、最初は面白がる気持ちもなくはなかったが、延々と攻勢を続けるスパムンの来襲を受けるにつれ、だんだん嫌気もさしてくる。俺は一線を越えてしまったのか、とマヌケにも自問してみる。いやバカだ、俺。問うまでもなく既に答えはでてるじゃないか。度重なるスパムンがそれを証明している。
やっちまった行為の愚かさを、俺の面前にリアルに突きつけてくるスパムンに、実は感謝すべきなんじゃないか。メル友募集記事をブログにのせようか、のせまいか、いくら葛藤しようと俺はまだ自分がこれからやろうとすることの意味をよくわかってなかったのかもしれない。だから感謝だ。目覚めの一撃を与えてくれたスパムンに。
って、できるわけねえだろ!人をおちょくりやがって!
放置することもできた。スパムンの存在を想定して、俺のブログのコメント欄はぬかりなく承認制にしてある。どこの誰がコメントしようと、俺のチェックなしでは、そのコメントはブログ上にUPされないようになっている。だからブログ閲覧者が間違ってスパムンを踏む心配もないわけだ。
ないんだけど、どんなコメントが寄せられているのかついついチェックしてしまうけなげで、腐っている俺。一縷の希望、いつかマジでリアル女の子からメルアド付きコメントが送られてくる、俺はあきらめていなかった。不屈の忍耐。・・・往生際が悪いともいう。だからコメントを放置はできない。スパムンというゴミクズの奥深くに埋もれたキラキラと輝く光の宝を見逃すことなきよう、俺は目と神経と欲望を研ぎ澄ましていた。
あ、言い忘れてましたが、女の子からコメントなんてからっきしきてませんよ。
こないよね、こないよね。
これできたらまさに小説だよね。奇跡だよね。
あは、あはは、あははははははははははははは・・・はははっはっは、は、は・・・はあああ・・・あーあ・・・。
自嘲笑いの次にはため息が出る、ていうかキーボード叩いててむなしくなってくる。「は」を連続して打つのは疲れる。
今、笑ったやつ殺すからね。笑わなかったやつも殺すからね。
どっちやねん!
・・・やめた。
俺の幾多の経験に裏打ちされたINネットゲー出会い講座開こうかと思ったがやめた。
人間やめた。
人間やめたい。
人間やめよう。
人間氏ね。
続く